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新田神社 東京都大田区矢口1-21-23 電話:03-3758-1397 FAX:03-3758-0863 特急多摩川線「武蔵新田駅」徒歩3分 武蔵新田商店街中央 境内駐車場有
::御祭神 ::
::創 祀 ::
正平13年(1358年)
::由 緒 ::
 清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称した。新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられた。

 義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破された。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令された。

 その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られた。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗した。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらした。

竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出した。
正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかると、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げた。
舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられた。
そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にした。
その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死んだ。

この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られた。これが新田神社の起こりである。(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいう。
例 稲荷大明神や神田明神などがある)

江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄える。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まるのである。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されている。
また新田神社が江戸日本橋から約4里(17km)のところにあり、「十万庵遊暦雑記」や「調布日記」などの紀行・案内書類に記されているように、目黒不動・大鳥神社→池上本門寺→新田神社・十寄神社→古川薬師などへとぬける当時の絶好のハイキングコースのひとつでもあった。
その後、明治6年1月に府社に列し、同42年9月には特旨を以て、御祭神に従三位が追贈せられた。

アニメで学ぶ新田神社の由来
::祭 日 ::
例大祭 10月10日
::建造物 ::
新田神社本殿 本殿は神明造にて昭和35年に明治神宮旧御本殿を復元奉建したもので、拝殿は流れ造にて新築したものである。
手水舎・神燈は共に伊勢神宮より下付されたものである。
昭和52年には宝物殿を校倉(あぜくら)造にて新築し、宝物を陳列している。
::御塚 ::
御塚  社殿後部の御塚は、義興公の御遺体を沈められた舟で作った棺に入れて埋葬した所で、直径約15メートルの円墳である。この中に入ると必ず祟りがあるというところから、「荒山」「迷い塚」などともいう。
江戸時代、盗賊がこの御塚内に逃げ込んで隠れようとしたが、意識不明となり、村人たちに捕まったことなどもあると古文書などに記されている。
また、御塚の真中にある「舟杉」は義興公の乗られた舟を埋めたものが、大杉になったものだという言い伝えがあったが、残念ながら雷にて焼失してしまった。
大正時代に御塚のまわりの石垣の整備の際に、偶然出てきた「小刀」を宝物殿に陳列している。
::御神木(欅 けやき) ::
  この樹齢七百年の欅は過去に雷や戦災の被害に会い、真二つの状態になってしまったが、新緑の季節になると青々と葉を付け、参拝者にひとときの安らぎを与えている。
また古木上部には、とても珍(めずら)しい「宿(やど)り木【植物】」が寄生(きせい)しており、早春、淡黄色の小花が咲く。
尚、この御神木に触れると『健康長寿』『病気平癒』のご利益が授かるという古老の言い伝えがある。
ご神木
宿り木
ご神木
 
宿り木
::矢 守(破魔矢の元祖) ::
 御祭神の御塚後部には、源氏の白旗を立てたものが根付いた「旗竹」という昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという言い伝えがある。
江戸時代には、「エレキテル(摩擦発電機)」などを製作した蘭学者平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。
爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与している。
神棚、お部屋、玄関などにお飾り下さい。
尚、東面または南面に飾ると、御加護の霊力がアップします。

●江戸時代の「四神地名録」「江戸塵捨」「十万庵遊歴雑記」など書物を見ると、宝暦(1751〜1764)頃より「義興の矢」として、門前の茶店で売られていたものが、後に源内の提案により、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊を付けたものを魔除けとして売り出すようになったことがわかる。
そして、この矢二本を買い、一本を御神前に奉納し、一本を持ち帰って魔除け「矢守」にしたという。
これは、新田家伝来の「水破兵破」のニ筋の矢に由来しているといわれている。
●源内が脚色した「神霊矢口渡の四段目の艇梁場(わたしば)の段」には、「今が最後観念と振り上がる間もあら不思議や。何国の共白羽の矢二人が吭射ぬかれて。其儘息は絶果たり。義岑臺は起上り。・・・是こそは家の重宝。水破兵破の二ッの矢の御矢と。驚給へば臺は目早く。其矢に短冊が。実もと月明り。何々二ッの矢を奪れては、新田の家名の衰へん事を愁へ。・・・朝敵を亡して兄上の恨みを散ぜん、代々伝はるこの御矢。家の重宝。武運の守り、・・・有難し忝しと踊り上て悦び給ふ。末世の今に至る迄新田の杜へ参詣し、守りの御矢頂戴の。因縁かくとぞ。しられける。」とあり、新田義岑(御祭神義興公の弟の義宗公)が新田の白矢に助けられ、その矢を家の宝とする様が物語られている。

初穂料 1000円

矢守 境内の篠竹
境内の篠竹
::矢口新田神君之碑 ::
矢口新田神君之碑 この古碑は延亭(1746年)に磐城国守山藩主松平頼寛が建立したももので、内容は縁起絵巻物と同様に、義興公の御事蹟と神社の創祀の由来を記したものである。
上部の篆題は頼寛の書で、詞書撰文は萩生徂徠(おぎゅうそらい)門下の儒者服部南郭(はっとりなんかく)で、書者は当時流行の書家松下鳥石葛辰である。
この種のものとしては区内最古のもので、湊川の「鳴呼忠楠氏之墓」碑と東西双璧をなす極めて貴重な銘碑である。
昭和49年2月2日に大田区文化財に指定される。
::うなる狛犬 ::
うなる狛犬 義興公主従を矢口の渡しでおとしいれた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社附近に来ると、きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。
しかし、残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。
::力石 ::
力石 力石(約180kg)。現代とは違い、娯楽が少なかった時代には、祭の日、若者達が大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名などを刻んで奉納したのである。
力くらべの行事は娯楽の面だけではなく、力石の多くが神社の境内にあるということからも、本来は神事儀礼であり、また重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼の一つでもあった。
::末社 稲荷神社::
 江戸時代頃に、この矢口村の稲作や農業を守護するために京都の伏見稲荷大社(和銅4年・711年鎮座)から、その御分霊がまつられたという。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。
よく狐が神様だと勘違いされている人が多いが、狐はお稲荷様の眷属(お使い)であり、神社の神域を狛犬が守っているように、狐が稲荷神社を守っているのである。
日本の国は弥生時代の昔より今日まで稲作によって栄えてきた国であり、日本人の主食はなんといっても「お米」である。コメとは神様の偉大な霊力・御恵が「こめられたもの」であるということから名付けられました。この米が実ったものが稲穂であり、この稲を成らせる霊力を持っている神様が、すなわち稲荷の大神なのである。
そして時代が下るとだんだんと産業・商工業が発展するようになり、次第に五穀豊穣の神様であるとともに、「商売繁昌・金運上昇の神様」としても広く人々に信仰され、今日に至るのである。
末社 稲荷神社 末社 稲荷神社
::御霊信仰と新田神社 ::
『新田大明神縁起』より義興公が怨霊として現れる場面
 御霊(ごりょう)信仰は奈良時代末期から公家社会のみならず、広く民間にも浸透していった。政治上の争いや陰謀によって失脚憤死した皇族や公家の死霊の祟りが疫病・旱魃・虫害・飢饉・火災・戦乱などの天災地変や個人の病気・墳死などの事件を巡って、これらの原因であるかのように広く世に宣伝され、朝廷でもそれに対して復位・贈号・陳謝・慰霊などをもって、これらを鎮めようとしたのである。
そして、この信仰は現実に起こる数々の天災地変といった社会的・個人的不安を背景にし、それらの原因を説き明かそうとする期待に答えて、民間巫覡らの神がかりや口寄せを通して、ここに名乗りだされた人間霊への民衆の同情と支援とがからみ合って、次第にその時代時代の流行となり、ついには、これらの死霊を神と崇め、神社を建ててまつるようになったのである。
それは京都の御霊会の創始や各地で御霊神社が創建されるようになり、菅原道真公が太政威徳天満大自在天神として、大宰府や北野天満宮にまつられたことなどが、その最も著しい例である。
そして次第にこれらの霊はただ祟るだけではなく、その偉大な霊力によって民衆に禍厄災害をもたらす原因すべてをはらいのけることができると考えられた。即ち、怨霊観念では怨念の力が強いことが人々にとって大変困ることになるが、この御霊信仰においては、怨念の力が強ければ強いほど効力があるわけだから、いっそう人々の信仰が高まったのである。
このように御霊信仰とは、疫病などの天災地変が死霊の祟りによるものであるという古代人の霊魂観ともいうべき怨霊観念と死や穢れに対する古代人特有の恐怖感に基づく忌穢観念とをその中核とし、それにシャーマニズムや密教、浄土教、さらに陰陽道などの中国文化の影響を受けて、それらが互いに絡み合った一種の民間の俗信仰といえるものであろうと思われる。
この新田神社にまつられている新田義興公は、中世における戦乱期に非業な最後を遂げた勇猛果敢な著名武将であり、それは菅原道真公と同様に一般民衆の同情と支援を受け、怨霊神=火雷神=御霊神という神格化の過程をたどり、その御神徳は義興公の人格や勇気ある行動を尊敬するところから生まれ、武運長久・家運隆昌・必勝開運、運を守る神つまり守護神としての恩恵を施し、「新田大明神」として斎い鎮めまつられたのである。
そして、新田神社は地域の守り神として地縁的機能を持ち、義興公鎮魂の道を歩み続けて、平成20年10月には、鎮座650年という悠久の長い節目の年を迎えるのである。
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